兼古隆雄ギター教室公式サイト 兼古隆雄の紹介

演奏家としての兼古隆雄の足跡の紹介です
 
 

♪このページでは演奏家としての主な足跡を年代順に紹介します。
♪短いコメントと共に写真も掲載してあります。
♪今までの演奏会評の抜粋が演奏の水準の高さを示しています。
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♪You Tube で音だけですがライブ演奏聴けます。
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カネコは優れたギタリストです、その見事に、洗練されたテクニックにより表現された音楽性と感受性に、私は深い感銘を受けました。
アルベルト・ポンセ(元パリエコールノルマルギター科教授)
1976年の帰国記念リサイタルにはメッセージです。
 

日本のギタリストは世界的に見てもテクニックが優れているが、そのに中でもカネコの演奏には、テクニックのみならず音楽的にも、最高の賛辞を与えなければならないだろう。
フェデリコ・モレーノ・トローバ(作曲家でA.セゴビアに多くの曲を書いた)
トローバの来日公演の際、現代ギター誌のインタビューを受け、
日本のギタリストの印象を尋ねられての言葉です。





(※敬称は略させて頂きます)
1944年 北海道寿都町に生まれる。
その後、小樽市で約10年、砂川市で約10年過ごす。
ギターを砂川市で初めて河面一良に師事、後大塚房喜に師事。
 
 

中学生の時、上砂川市で河面先生の発表会での演奏。
初めての発表会(中学一年)の時は、緊張して、右中指が硬直し、弾き難った事があった事思い出す。
当時、父親の転勤で砂川市に住んだ、歩いて5分程の神社の境内に住み、バイオリンを教えていた河面先生に初めてのギターレッスンを受けた。
その後、駅前の牧田靴店の2階で、大塚先生に本格的なレッスンを上京するまで受けた。
17才で札幌市の大塚門下生で結成された「クレッセンドグループ」の有料の会に出演。
大塚先生には大変良い指導をして頂いた事、深く感謝している。
その後の人生、どうにかギターに進めたのも、この指導があっての事と思っている。
私の上京後、砂川市でのレッスンがなくなったと聞いて、思いを深くした。
それまで、お稽古事と云う物した事がなかったので、ギターは新鮮で良く練習した。
河面先生の専門がギターでなかった、それが音楽一般の知識と常識を得る良い機会になったのも、今思うとありがたかった。
 
1963年 早稲田大学教育学部英語英文学科に入学と同時に小原安正に師事する。
 
1965年 第8回ギターコンクール(日本ギター連盟主催/現東京国際ギターコンクール)で、一位なしの二位首席。
 
  1965年2月1日第8回ギターコンクール審査発表(旧第一生命ホール)
  審査委員長の園部三郎氏が審査の結果発表で舞台に登場。
後方は本選出場者、主なところでは、左から兼古隆雄、渋谷忠三(第三位)、6人目が渡辺範彦(第2位)、次が芳志戸幹雄、現在兼古以外は故人となっている。
 
1966年 第9回ギターコンクールで審査員の満票で第1位を取り、スペイン大使杯を受ける。
 
1967年 東京文化会館小ホールでデビューリサイタルを行い、松本太郎氏よりコンサート評を得た。

1967年3月25日デビューリサイタル / 東京文化会館小ホール(現代ギター誌より転載)
無我夢中で弾き終えた感でした、終演後打ち上げもせず、船で大島へ行きのんびりしました。
 
これを皮切りにプロ活動に入り、自主活動や各地からの招待演奏を行い、第一線の地位を固める。
その間、来日したN.イェペス、J.ルイス・ゴンサレス、R.サインス・デ・ラ゛マーサ、J.トマス氏らのレッスンを経験し、視野と知遇を広めた。
 

イェペスに初めてのレッスン受ける(旧ギタルラ社2階)
小原門下の有志でレッスンを受けた。
受講曲は第9回ギターコンクールで弾いたトロバのソナチネ。
この時、目の前に強度のメガネを掛けた憧れの巨匠を前に、緊張した。
そして「あなたの様なマエストロの前では上手く弾けない」と言った。
すると、この様なアドバイスがあった、「私も、エネスコやギーゼキング等にレッスンを受けたが、自分の練習では、出来るだけ緊張し集中していたので、あがらず出来た。」
それ以来、練習の時この言葉を思い出している。
そのほか、合理的な運指の考え方等、レッスンでは得る所大であった。
 
1969年 第2回リサイタルを行う(東京文化会館小ホール)
 J.ロドリーゴの「アランフェス協奏曲」(ピアノ伴奏三石精一)を含む意欲的プログラムに対し、再び松本太郎から良いコンサート評を得た。
初めてピアノとの共演で協奏曲に挑戦、指揮者である三石精一の巧みなサポートと練習の時の的確で音楽的アドバイスに深く感謝している。
この会は「現代ギター誌」の当日の取材はなく、記事のため後日ギタルラ社でレッスンの時写真を撮りに来た。

1969年2月頃
ギタルラ社で、ギターのフレータもギタルラ社の売り物を借りた。
 
 
1969年 日本ギター連盟が開催した「ギターの祭典」で初めてオーケストラと共演した。
三石精一の指揮、オーケストラは読売交響楽団の選抜メンバーでした。
演奏曲はJ.ロドリーゴのアランフェス協奏曲でした。 

 1969年6月12日旧第一生命ホール。
 初めてのオーケストラとの共演で不安だったが、指揮者のリードで助けられた。
ピアノとの共経験演が物をいった。
会場で聴いていた高橋功博士が「今まで聴いた邦人のアランフェス演奏の中では、一番良かった」とのコメントを伝えられ、嬉しかったこと憶えている。
 
1971年 第3回リサイタルを行う(東京文化会館小ホール)
三石精一(ピアノ)の賛助を得て、モーリス・オアナのギター協奏曲「3つのグラフィーク」の本邦初演を含む演奏は、松本太郎より絶賛される。
 

  1971年3月6日東京文化会館小ホール
モーリス・オアナのギター協奏曲を三石精一のピアノ共演で弾く。
三石先生とはリサイタルや協奏曲の共演を通し、貴重な助言を沢山受けた。
その時は、ギター界とは違う感じを受け、出来るだけ一般の音楽会の、いわば当たり前を知る必要を痛感し、吸収する様努力した。
それが、その後の自分の音楽活動にとり、計り知れない財産となり、深く感謝している。
 
1972年 「ギターの祭典」でM.オアナ作曲の協奏曲「3つのグラフィーク)演奏。

旧第一生命ホール
以前ピアノ版で本邦初演した、オアナの「3つのグラフィーク」をオーケストラ版で演奏。
ピアノ版と違い、実際のオーケストラ版では、様々な音色と打楽器はエキサイティングだった。
ここでも、優秀な指揮者の方に支えられ、感謝に耐えない。
余談になるが、パート譜をフランスからレンタルした費用は自己負担、当時の10万円は、若い身には少しこたえました。
 
1973年 渡欧、スペインのサンティアゴ・デ・コムポステラの夏期講習に参加、J.トマスに再び師事、その後パリに留まり名匠A.ポンセの個人レッスン受ける。
 

トマス先生のレッスン。
先生は来日公演(1968年)の際、シャコンヌとアランフェス協奏曲をレッスンして頂いていた。
その知遇で、定員オーバーのこの年、先生に電話すると快く受講許可してくれた。
様々な国から集まったギタリスト達とふれあい、視野が広がった。
ギターレッスンの会場になった高級ホテル・オスタルカストリコスの部屋は素晴らしい響きだった。
 

パリでのアルベルト・ポンセのレッスン (パリ16区の先生の自宅で)
パリに着いて、6月小原先生から頂いた住所で先生のアパルトマンを探した。
留守だったので、手紙をドアの下から入れて帰った。
スペイン戻った9月になっても返事がなかった、そのエコールノルマルで先生に就いている日本人のカゴさんと知り合った。
彼の手配で、自分のレッスン時間に紹介して貰った。
先生が、すぐ何か弾けと言ったので、ギターを借りて、バッハのリュート組曲第三番の前奏曲を弾いた。
その場で、レッスンの承諾を得られホットした。
高級住宅街地区のメトロ駅のパッシーで降りてレッスンに通った。
毎回一時間を超す有益なレッスンをした頂き、感謝している。
帰国後も時折、私の事を話していたと伝え聞き、嬉しく思っている。

 
パリのブローニュ公園に面している高級住宅街にある個人宅でのリサイタル。
大学の友人で海外との貿易をしていた内藤(故人)の紹介で、フランス人のジャク・ペイテルと知り合った。
彼が一ヶ月一回、自宅で開催するホームパーテイーに行く搖になった。
帰国の予定を付けると、自宅でのリサイタルを企画してくれた。
 


パリ郊外のモンレリーで演奏、ソロ(上)とリコーダー(下)との共演
パリでは、13区のイタリア広場の近くのアパルトマンに住んでいた。
知人を通して、リコーダー奏者のミゲール・ハイマンど知り合った。
時折、ルネッサンスやバロック音楽を練習し、時々演奏も行った。
余談だが、2019年ミゲールよりメール、50年ぶりのコンタクトが再開した。
ネットでホームページを見つけて連絡したとの事だった。
それ以来、季節ごとに挨拶を交わしている。
 
1974年 帰国し国内での活動再開する。
 
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1976年 帰国記念リサイタルを行う。

1976年1月24日(東京文化会館小ホール) / 現代ギター誌ょり転載
三石精一のピアノ賛助を得て、ビラ・ロボスの協奏曲を含む演奏は、評論家中河原理より良い評を得た。
 
1977年 F.モレーノ・トローバの協奏曲「セギデーリャ賛歌」本邦初演

3月2日/旧杉並公会堂 左から兼古隆雄、F.モレーノ・トロバ、中林淳真
スペインの作曲家F.モレーノ・トローパが来日し、自ら指揮をして、自作品を披露した。
2月25日スペイン吹奏學曲を行い、3月2日は杉並公会堂でスペイン交響詩と題し、2回のコンサートをした。
作曲家の指揮で、自作品を共演できる機会は貴重で、良い経験をした。
 
1978年 委嘱作品を弾くリサイタルを行う。

1978年1月23日(東京文化会館小ホール)
東京芸大で当時助教授だった野田暉行に独奏曲を委嘱、世界初演した。
当時マネージメントをして頂いていた楽友社の松岡社長より紹介して頂いた。
仕上がりが遅い方だったので心配だった、最初の2ページは一週間前貰い、速いパッセージを含む3ページは会の3日前。
寝食を忘れて練習したのを覚えている。運指付けで一日掛かり、残り2日でどうにか弾けるようになった。
勿論、楽譜を見ながらの大奮闘だった。
 
1981年 教則本「ギターメソッド」を東京楽譜より出版する。
 
1982年 NHK・FM放送の「午後のリサイタル」に出演する。
 
1984年 俳優の山本 學の朗読「ブラテーロと私」共演する。

1984年4月9日ルーテル市ヶ谷センター。

大俳優なので駄目でもともとと思い、人を通して打診した所、快く引き受けて頂き愕きと感謝でした。

それぞれの詩を通して、滋味あふれる朗読は、共演者としてもイメージを作りやすかった。
その後、北海道でも公演して頂いた。
 
同年 野田暉行のギター協奏曲世界初演する。
当時レッスンをしていた、武蔵野音楽学院の記念音楽会が開催された。
同学院の樫本滋郎学院長が野田暉行に作曲を委嘱した。
指揮は三石精一、オーケストラは東京交響楽団だった。
 この時も、ページの多い第三楽章が届いたのは本番の10日程前。
指使いを考え、必死に練習した事忘れない、結果はどうにか音を出せた。
 
1987年 俳優の花澤徳衛の朗読で、「プラテーロと私」共演した。
 
1988年 NHK・FM「現代の音楽」番組で4年前に世界初演した野田暉行のギター協奏曲が私のソロで放送、NHKでのスタジオ録音、指揮は小林研一郎、東京フィルハーモニーとの共演だった。
 
1989年 リサイタルを行い、年間の国内ベスト3に選ばれた。

1989年6月5日武蔵野市民文化会館(小) / 現代ギター誌より転載
武蔵野音楽学院がギター講師によるシリーズリサイタルを行い、その一つでした。
野田暉行のギター協奏曲のピアノ版による初演奏、ピアノは編曲も担当した下牧康子。
他にバッハのリュート組曲№3、ビラロボスの5つの前奏曲だった。
評論家の藤村貴彦は、現代ギター誌の年間演奏ベスト3の一つに取り上げた(このページの下の「評論」を参考)。
氏の挙げた他の二人は、イェペスとフェルナンデスだった。
 
1993年 野田暉行の「アドリア狂詩曲」を本邦初演した。

1993年11月15日津田ホール / 現代ギター誌より転載
野田暉行が鈴木一郎の委嘱で作曲したギター協奏曲を、NHK交響楽団選抜メンバー、作曲家自自身の指揮で公演した。
当時第2バイオリンの首席を務めていた、堀江氏の協力で、良いメンバーが集まり、難曲を高いレベルで演奏出来た。 作曲家から「楽譜通りの演奏になった」と言われ、ほっとしたのを思い出す。
この演奏はカメラータ・トーキョウより、ライブ版でCDされた。
  この会は、公認会計士のアマチュアギタリスト松本欣一(故人)が計画、私の友人や門下生の協力での開催、ホールは満席となり深く感謝している。
 
1997年 メルボルン市で演奏。


1997年11月22日目メルボルン市の聖サウスゲイト教会 当市に住んでいた、早稲田大学時代の親友大熊勝彦君の関係でコンサートが出来た。
  共演はN響の堀江のバイオリンと奥様のフルート、癌研究の資金集めのチャリティーであった。
初めての南半球は新鮮な感動があった、開場の響きは申し分なく、聴衆の一分位の拍手と表情はとても気持ちよく演奏さ せてくれた。
 
 
1999年 CD「プラテーロと私」リリース。
 
カメラータ・トーキョウよりリリースしたCDはレコード専門誌「レコード芸術」で特選版にあげられた。
その時の付録のサンプルCDに「涙のパバーヌ」が収録された。
 
2000年 ドイツで二つのリサイタルを行う。

2000年10月2日フェルバッハ市でのリサイタルを伝えるフェルバッハ新聞。
会場はフリードリッヒ・シュラー高校の音楽室で、響きが大変良く気持ちよく演奏出来た。
当時ここに住み活躍していた、加藤政幸氏の計らいでの開催でした。
翌日の新聞で「バッハのフーガが当夜の白眉だった」と書いてあり、バッハの本国で認められ嬉しかった。
ザールブリュッケンでも演奏した。
 
2001年 東京オベラシティで「アランフェス協奏曲」演奏した。


2001年1月21日東京オペラシティ・武満メモリアル大ホール

堤 俊作(2012年没)の指揮、メトロポリタン管弦楽団、響きのよいホールと良い指揮で、気持ちよく演奏出来た。
久しぶりのオーケストラとの共演だったが、自分の音楽を表現できたと感じた。
ソプラノの森 痲季さんも出演し、華やかなニューイヤーコンサートとなった。
この会は他にも思い出が深い、実現には再び会計士の松本欣一の力があった、心より感謝している。
更に、前日の夜リハーサルを終わり外に出たら大雪、車で移動で、東名高速が閉鎖になり、246号線が大混雑、帰宅が午前になり、本番がマチネ、ゲネプロが10時、睡眠が短く、ダイヤにチェーン巻いたので指が疲れ、最悪の状態での本番、しかし、本番は問題なく進行、ほっとした…
 
活動は公演の他、NHK・FMや民放テレビ出演など幅広い。
演奏の他、後進の指導を含め、長年に渡り東京国際ギターコンクールの審査員と公益社団法人日本ギター連盟の理事職を務めた、2014年勇退した。

 
近年は地元町田市で俳優の山本學の朗読とのコラボ毎年開催している。
このコンビでの地方公演も結構あり、新しい演奏形態を開発している。
 
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主な演奏会評抜粋(現代ギター誌より転載)
 
♪デビューリサイタル / 1967年3月28日 / 東京文化会館小ホール
「このデビュー演奏会は成功」  松本 太郎
落ち着いたステージマナー、危なげのないところの演奏技術、曲のつかみどころのうまさ、表現法の妥当さ、音色、テンボ、表情の変化の付け方等、すべての点で独奏家としての資格を、持ち合わせていた。
 
 
♪第二回リサイタル / 1969年1月16日 / 東京文化会館小ホール
著しい進歩を見せる」  松本 太郎
細かい所まで良く手に入り、音の扱い方、運指法、高い音と低い音のバランス、重音の明晰さ等に見るべきものがあり、快く流れるテンポ、快活な明るい気分と沈んだ思い気分と、細かい音形の速いテンポの部分と緩く線の太い部分との対象などが良く表現されていた。
 
 
♪第三回リサイタル / 1971年3月6日 / 東京文化会館小ホール
「表現力と迫力と魅力に興奮した)  松本 太郎
オアナの協奏曲は我々が初めて接したような手法テクニック、器楽法、管弦楽法表現、表情が全曲に満ちており、なかんずく不協和音に満たされていながら、高邁な精神や溌剌とした感情やデリケートな感覚が横溢していた。
 
 
♪第四回リサイタル / 1973年1月27日 / 東京文化会館小ホール
「誠実な音楽に感動」  太田 欣也
ことに、「東方の協奏曲」のカデンツァに見せた風格は、めざましい物があった。
すでに演奏家としての方向を定め、確固とした歩みを進める兼古君の演奏ぶりに注意
して、この次の会でも接してみようと思う。
 
 
♪第五回リ帰国記念サイタル /1976年1月24日 /東京文化会館小ホール
「魅力溢れるダウランド」  中河 原理
 いちばん楽しかったのは音の美しさだろう。
ひとつひとつの音が丁寧にかつ入念に作られ、そして手放されていた。
音に汚れがなく、音相互もらくらくとしてシコリがなく、音楽のテクスチュアが透けて
見えるようだったのは、まことに気持ちかった。
 
 
♪第六回リサイタル  /  1978年1月23日  /  東京文化会館小ホール
「心安らかに音楽をたのしませる」  石田 一志
 豊かな音楽性と堅実な表現能力は充分にうかがわれる演奏だった。
音楽の楽しみを満喫させるプロフェショナルなコンサート・プレーヤーにギター界で出会えたのは、正直言って初めての事だった。
 
 
♪第七回リサイタル  /  1982年2月13日  /  ルーテル市ヶ谷センター
「上品かつ温和な音楽」    中河 原理
 清潔、上品でデリケイトな音楽を楽しむことができた。
一種憂いなようにものをかんじられるのは兼古の性格なのだろうか。
現代日本の作曲家による2曲が兼古の意欲を感じさせて好ましかった。
中でも印象に残ったのは野田暉行の「ギターソロのためのインテルメッツォ」で、これは
表情豊かな美しい曲だと思った。
局面の変化を生かした、弾き映えのする曲で、兼古の演奏も手の内に入っていた。
 
♪武蔵野音楽学院ギター科講師リサイタル/1989年6月5日
 武蔵野市民文化会館(小)
「野田暉行の協奏曲を好演」  藤村 貴彦
大変見事な演奏を聴かせてくれた。
兼古の音楽はのぴのび、かつ楽器はよく鳴りたっぷり音が出て、落ち着いた色調を持っている。
何処かおっとりとしした暖かいものを感じさせるタイプの人である。
完璧な技術を持ちながら、それをひけらすこともなく、旋律のこまかい動きなどを分析するように克明に表し、作品を深く掘り下げてゆくような演奏であった。
 
♪特別演奏会 / 1993年11月15日  /  津田ホール
「ギター界の支柱をあらためて認識」  池田 逸子
野田暉行/ギターとオーケストラのためのアドリア狂詩曲(日本初演)をメインに気合の入った、充実したコンサートであった。
野田のギター作品3曲をすべて日本初演しているという兼古ならてはの力演、快演であった。
決して派手なスターではなく、どちらかと言えば地味な方に属しながら、このような意欲的で、丁寧なコンサート活動をするギタリストの存在は頼もしい。
 
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You Tube で兼古隆雄の演奏が聴けます、画像はなく音だけです。


 
曲の情報の下の 聴く をクリックするとyou-tubeにつながります。
♪1988年の東京女子大学でのライブ公演が音源。
ライブですので多少の不具合無視して下されば幸いです。
 参考⇒東京女子大学サイトへ
 
♪I.アルベニス作曲 (兼古編)        アストゥリアス
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♪F.ターレガ作曲           アランブラ宮殿の想い出
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♪A.ルビーナ作曲                   練習曲
(通称「映画禁じられた遊びより"愛のロマンス")
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♪M.リョベート               アメリア姫の遺言
聴く
 
 
♪H.ビラ=ロボス作曲               練習曲第一番
聴く
 
♪H.ビラ=ロボス                練習曲第十一番
聴く
 
♪A.ルイス・ピポー作曲             歌と踊り第一番
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♪J. S. .バッハ作曲            シャコンヌBWV 1004
聴く
 
♪F.ソル作曲     モーツァルトの魔笛の主題による変奏曲Op.9
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サンティアゴコンポステーラ講習会 
 
  •     レッスンの合間等カフェで国際交流

 
パリのシンボルであるノートルダム寺院の上に上がった
後ろに見える尖塔が火災で落ちたとは・・・・
隣のカップルはフランス風?
 
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